パチンコ・パチスロ

近年、その依存性を特に顕著に示しているパチンコ・パチスロ業界ですが、大抵の皆さんがやっていない、またはお金の無駄など、そういったことを考えている人が多いでしょう。

結論から言わせて貰うとすれば、やらないことに越したことはありません。結局のところ、ギャンブルですからスリリングであり、金銭を使う額も最近の景気などを考慮しても一般人からは許容を超えるような支出も簡単に出さなければならなくなります。ただそれも相当やりこんでいる人だけです。

最近のお客さんは、皆そういったことを良く考えて行動している人も多く、節度よく守って、限度を定めて遊戯している人がほとんどとなっています。

そもそも依存的に、一回の遊戯につき10万円なんて額を使うなんてこと、普通は想像できないのがほとんどのはずだ。おまけにそれだけ突っ込んでも、その分がそのまま手元に帰ってくるという保障はどこにもない。

筆者もパチンコを遊戯して始めてから、約8年ほど経っただろうか。元々筆者がやりたいと思い始めたきっかけは、子供の頃に慣れ親しんだアニメ作品がパチンコのタイアップとして出ているということを知ったから、ということが始まりに過ぎない。

やり始めのころは、皆ビギナーズラック、といった現象で偶然にも勝って、そこからのめりこんでしまう人も中にはいるだろうが、筆者にはその心理は理解できない。やり始めの頃。筆者は負けっぱなしで、まともに勝てたというのは遊戯を始めてから約半年後という、何とも遅い価値を経験をしたので、正直な話としてはスタートとしては依存的にのめりこまないような始まりだったのが救いだろう。

ここでは別に、パチンコが面白い、絶対にやるべき、と言ったことを誘導するようなことはせず、一種の経済影響として業界を見聞していこうと思っている。

よく言われているが、上限を守って節度良く楽しむことが必要といわれている通り、そういった自制心をもって自分を諌めることができれば、またパチンコやパチスロを楽しむことが出来るようになるのではないかと思う。

また、勝つ日もあれば、負ける日もある、といった感じに開き直って行動することこそ大事だと筆者は考える。

パチンコ

今でこそパチンコ屋とはっきり分かるような年になってきたが、子供のころはやたらうるさい店がある、といった印象でしかなかった。

パチンコ店というのは開業するとなればかなりの労力と資産が必要となってくるが、まず施設設立前に警察に営業許可を事前に求めなければならないというところから、その開業スタイルが大きく違うだろう。

そもそも日本でこれだけ全国規模でパチンコ店が多く顕在しているのは世界でも稀で、台湾のような法律上でパチンコ自体することが禁止されているといった国もあるほどだ。アメリカやグアムなどにもパチンコ店が存在しているが賭博として位置づけられて規制対象となっている。韓国では在日韓国人によって、パチンコが持ち込まれて流行したが『人間を怠惰にして、人生を狂わせる』として、2006年からは法律で全面禁止となる。

日本国内のパチンコ店で行われる営業は、法的には風俗営業などの規制、及び業務の適正化に関する法律、第二条第一項第七号で『施設を設けて客に射幸心をそそる恐れのある遊戯をさせる営業』として定めている風俗営業で、遊戯の結果で得た高級を商品と交換し、パチンコ店から現金が持ち込まれている景品交換所で現金と交換される営業が行われた。

このような遊戯施設は、十八歳未満の者は営業所に立ち入ってはならない旨を入り口に表示するよう義務付けられると共に、客として立ち入らせることを禁じられている。

パチンコ遊戯施設は、現在ではギャンブル的要素を持つが、庶民の身近な娯楽施設として都市や地方を問わず国内各地にくまなく存在している。子のため、多くの社会問題を抱えている。

パチンコ店以外では、ゲームセンターや露天など似てもパチンコ台が設置・運営されているが、この場合は鋼球と景品の交換は行われない。コンシューマ分野に置いては、中古のパチンコ台を個人向けに売買する市場が有り、またこのようなパチンコ台の特徴を模した玩具や、シミュレーションゲームとしてのビデオゲームもある

歴史(※引用)

1925年頃に大阪で横型コリントゲームを改良したものがパチンコの発祥との説があるが、専門家によると実際にはヨーロッパから輸入されたウォールマシンが日本で広まったものがパチンコの起源であるとされる。

1930年 風俗営業第1号店が名古屋で許可されパチンコ店が開店。

1936年 高知でパチンコが大流行、半年で35店が開店。

1937年 日中戦争勃発。戦時特例法によりパチンコ店の新規開店が禁止される。現在のパチンコと同じ鋼球式のパチンコが登場。

1941年 太平洋戦争勃発。

1942年 戦時体制により、パチンコは不要不急産業として全面禁止。パチンコ店は閉店され、台は処分される。

1946年 禁止されていたパチンコが復活する。

1948年 風俗営業取締法(改正前の風営法)制定により、パチンコは許可営業となる。「正村ゲージ」が登場。

1949年 貸玉料金が1円から2円に値上げされる。

丸新物産(現:ニューギン)が名古屋市で設立。

1950年 竹屋商会(現:竹屋)が春日井市で設立。

1951年 法改正により18歳未満の入場が禁止される。ソフィア(西陣)が桐生市で設立。

1952年 菊山徳治考案のオール20連発式(機関銃式)が開発される。京楽が名古屋市で設立。大一商会が愛知県(現在の北名古屋市付近)で設立。

1953年 第1期黄金時代到来。パチンコ店387,664軒にのぼる。製造メーカーは約600社。循環器第1号機(高速度連射可能機:160~180発/分の玉が自動的に発射)開発。これによりパチンコブームが加熱し、射幸心をそそるとして後の連発禁止令の要因となる。

1954年 東京都公安委員会が「連発式パチンコの禁止」を決定、全国に広がる。豪快不況が到来、全国軒数も半減。

1955年 モナミ商会(現:三洋物産)が名古屋で設立。

1956年 第一回業界編成期を迎える。

1957年 神武景気を意識した「ジンミット」が登場。「竹屋式無人機」の登場で、従業員がシマの中に入らなくてもよくなった。役物コミック機登場。

1958年 藤商事が大阪市で創業(法人としての藤商事設立は1966年)。

1960年 画期的な「チューリップ」が登場。リモートコントロール方式を初めて発売。第2期黄金時代到来。平和が桐生市で設立。豊丸が名古屋市で設立。パチンコメーカー60社が集まって日本遊技機工業協同組合(日本遊技機工業組合の前身)を結成。

1961年 大阪で三店方式の基となる仕組みが誕生、全国に広がる。

1962年 盤面のファッション化に拍車がかかる。

1963年 分離式(ユニパック)発表。メダル式パチンコ機登場。

1965年 パチンコ店1万軒を越える。オリンピアマシン(パチスロの前身)登場。

1966年 三共(現:SANKYO)が名古屋で設立。

1972年 電動式ハンドルが認可される。貸玉料金が2円から3円に値上げされる。

1973年 太陽電子(現:タイヨーエレック)が名古屋市で設立。

1975年 間寛平の「ひらけ!チューリップ」が100万枚の大ヒット。サミーが東京都で設立。

1978年 貸玉料金が3円から4円に値上げされる。

1979年 全日遊連が「パチンコの日」制定(毎年11月14日)。高尾、三星(現:サンセイR&D)が名古屋市で設立。

1980年 現在のデジパチの基本である「三共フィーバー」が登場。

1981年 現在の羽根モノの基本である「ゼロタイガー」が登場。警察庁がフィーバー機の大当たり時に開く大入賞口開閉時間を30秒×10ラウンドに規制。

1982年 権利モノが初めて登場。

1983年 大同(現:ビスティ)が東京都で設立。

1984年 フィーバー機の大当たり時の大入賞口開閉時間を15秒×10ラウンドに規制強化。

1985年 保安電子通信技術協会によるパチンコ機の検定制度開始。

1986年 「全国パチンコ・パチスロファン感謝デー」制定。

1988年 警察庁が「CR機構想」を発表。日本レジャーカードシステム設立。東洋商事(現:フィールズ)が名古屋市で設立。

1989年 日本遊技関連事業協会設立。日本ゲームカード設立。

1990年 風営法施行規則改定。最大大当たりラウンド数が10ラウンドから16ラウンドに緩和。確率変動(確変)の導入。

1990年代 この頃より車に置き去りにされた子供の熱中症事故が問題視され始める。

1992年 最初のCR機「CRフラワーショップ」が登場。

1993年 「ダービー物語事件」。この事件を機に連チャン機は規制され、CR機の導入が加速化する。

1995年頃 台北市が三店方式のパチンコ店を全面的に禁止した。

1996年 遊技機内規変更。CR機の確変の連続が最大80ラウンドに制限(いわゆる5回リミッター)され、大当たりの確変を搭載したCR機の時短機能や確変の2回ループを禁止。それまで規定されていなかった大当たり確率の下限を1/360に規制。同時に「社会的不適合機」と呼ばれ、射幸性が高いとみなされた機種(約70万台)を自主撤去。

1999年 遊技機内規変更。大当たりの確変割合と大当たりの出玉数に応じてリミットを設けるようになり、5回リミッターが事実上の撤廃。最低賞球数が5個の機種の場合、大当たり確率の下限を1/320に規制。

2002年 遊技機内規変更。最低賞球数が5個から4個に。大当たり確率の下限が、賞球に関係なく1/360に緩和。大当たり終了後の時短が認められる。

2004年 風営法施行規則改定。パチンコの種区分が廃止。ハンドル部へのバイブレータ搭載、抽選演出の省略(センサー等を使用したスキップ機能)、演出の書き換えによる連続予告(擬似連続予告は対象外)をそれぞれ禁止。大当たり確率の下限が1/500に緩和。ループ式の機種の確変割合の上限(50%)や普通電動役物(電動チューリップ等)のサポートを搭載した場合の高確率の上限(1/50)を撤廃。最低賞球数が3個(規則上は1個)に。

2005年 遊技機内規変更。1/500にまで緩和された大当たり確率の規定が見直され、下限が1/400となる。

この頃からパチンコの新機種のテレビCMが頻繁に流れるようになる。

2006年5月 風営法改定。閉店前やトラブル時の出玉保証の禁止、明らかに18歳未満と分かる者を入場させたパチンコ店に対する罰則規定などが盛り込まれる。

2006年6月 「みなし機」の完全撤去。

2006年秋  韓国のパチンコ店(1万5,000店)が全面的に廃止された。

2006年8月8日 有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構設立。

2007年4月 有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構が「誓約書」を提出した全国のパチンコホールに対して、「随時・不通知」の立入検査を開始。

2008年3月 遊技機内規変更。2004年の規則改定以降なくなっていた連続予告の解禁(ただし、変動時間を変更してはいけない)。

2009年4月 遊技機内規変更。大当たり確率における「出玉なし通常大当たり」は大当たりの確率計算から除外した上で、下限1/400を遵守(確率計算から除外しない場合は、1ラウンドあたりの特別電動役物の開放時間を6秒以上にして出玉を得られるように

すること)。

2010年7月 遊技機内規変更。大当たり確率における「出玉なし大当たり」を最大出玉の1/8未満と定義付け、通常/確変の種類を問わず、大当たりの確率計算から除外した上で、下限1/400を遵守。

2011年1月 遊技機内規変更。大当たり確率における「出玉なし大当たり」を最大出玉の1/4未満と定義付け、通常/確変の種類を問わず、大当たりの確率計算から除外した上で、下限1/400を遵守。かつその確率を「出玉なし大当たり」を含めた確率の1/1.3以上に制限。

2012年8月 ダイナムの持ち株会社ダイナムジャパンホールディングスが香港証券取引所に株式公開。パチンコホール運営会社の株式上場は初めて。

歴史の変遷という形からすれば、非常に古くからあるパチンコだが、それもやはりギャンブルとしての位置づけでしかなく、文化的なものとしては見られるようなことはないだろう。ここまで日本で盛んで、それ以外の国では認められていない、あるいは禁止事項にしているというのは、やはり宗教的なものも関わってくるだろう。

日本は多宗教、もっと言えば信仰している宗教というものが人によって全く違ってくるので、それによって伴う考え方も全くといっていいほど個人によって異なってくる。

悪は悪でしかない、そんな直接的な教えを説いている宗教があるのかどうかは分からないが、罪として考えるとなればやはり神の教えに逆らっていると結論に至る人もいるだろう。

そういった意味では、日本は些か好き勝手できる国なのかもしれないが、今回はそんなところまで首を突っ込むつもりはないので、ここまでにしておく。

パチスロ

パチンコについての紹介をしたのだから、次にパチスロに関しても説明をしなくてはならないだろう。

筆者の『スロット』という言葉で一番に閃くのは、某有名会社が作ったゲーム、ドラゴンが活躍するようなタイトルの作品の5作目に登場するゲーム内でのカジノスロット、といえば連想する人は意外に多いのではないのだろか。

そもそもスロットというのは日本ではなく、アメリカは南北戦争の時代に製造された『スロットマシン』というのが原点となっている。その後、コイン作動式の競馬ゲームがアメリカの酒場で稼動し、この種の機械が新たな工業製品の分野として成功するようになった。それからさらに、一般にポケットマシンと呼ばれる、無数のピンを売った盤面にコインを投入し、所定のポケットに入れれば価値という、日本の戦後あたりのパチンコを思わせるゲームや、一般にホイールと呼ばれる、面を放射状に区分けした円盤が回転するマネー・ホイールに似たゲーム機が多く製造されるようになった。しかしスロットマシンの主流がリールマシンに移る年代以降、この種のマシンは年々減っていった。

現在のスロットの多くがリールマシンを導入している中、初期の頃のリールマシンというものは、複数の回転輪を並べて回転させ、停止したときの絵柄の組み合わせで得喪を決定するものだった。登場時期のころはポーカーをモチーフとするゲームとして出現したが、それらのゲーム結果の判定と払い出しを自動的に行うメカニズムはまだ備えておらず、当たり目が出た場合は、オペレーターが景品のビールや葉巻を手渡しで払いだす必要があった。

パチンコとパチスロのそもそもの違いというのは何なのかということを挙げると、やっている人の中にはよく知らないという人もいるだろう。

2つの遊戯性の違いとしては、『ある程度の技術介入』要素が明確であり、でだまを左右しやすい点にある。つまり打ち手のレベルやテクニックによって目に見えて差が開きやすくなっているのだ。また当然ながらシステムや遊戯方法にある程度の理解がないと遊戯する上での楽しみや興奮も少なく、始めるにあたってはパチスロは難易度が高い遊びといえるだろう。最も現れている違いというものは『あらゆる役が当選しても、遊技者がその絵柄を決められた位置に止めないと払い出しを受けられない』という部分にある。そのため、ボーナスや小役は基本的に遊技者が止める必要がある。

風営法の改正が行われる前では、店員がそうした止める技術『目押し』が出来ないお客さんのためにしてあげるサービスもあったが、法律改正の影響で、そうした行為を禁止されてしまった。その後は目押し自体はしないものの、どうすれば止められるのかというコーチンぐを行っている店舗はある。

歴史

1964年、アメリカ統治下の沖縄で『オリンピアマシン』が誕生し、現代のパチスロの嚆矢となった。東京オリンピックに因んでオリンピアと名づけられたスロットマシン方のこの遊技機は、ゲーム機メーカーのセガとタイトーが共同会社であるオリンピアを設立、セガがかねてより在日米軍基地や欧州市場向けに製造していたスロットマシンを応用した製品の製造を担当し、販売営業を分け合った。1ゲームに投入できるメダルは1枚、絵柄の組み合わせの有効ラインは1つで、ボーナスゲームはなかった。

それから日本のスロットマシンは様々な変遷を繰り返していくことになる。

0号機

1977年、0号機が登場している。基準などなかった時代なので、極端にスベリのあるものや、反対にスベリの少ないものが有り、目押しのできるプレイヤーにとっては攻略の対象となっていた。リールもギアで動くものだった機種では、窓を押さえることでリールを止めることもできる機種もあった。

役は、ボーナスゲームと子役ゲームのみで構成され、一度ボーナスゲームが当たると次回のボーナスゲームが高確率で当たり、店が設定した打ち止めまで続くようになっていた。

また、連荘の規制もなかったので激荒の波を持った機種もある。『パチスロパルサー』には山佐パターンと呼ばれる独特のリーチ目があって、リーチ目表がホールに張り出されていた。このパターンは現在まで続いており、パルサーシリーズのウリとなっていることで、往年のファンにはたまらない使用となっている。

当時の営業方法は、今のように無制限で交換率が5~7枚というものではなく、ボーナス一回ごとに交換し、交換率も10枚交換などというホールがざらだった。またリプレイもなかった。コインサンドもまだなく、通貨50枚単位で包んであるのと同じものをカウンターで1000円で交換して、遊技を行っていた。

メダルの貸し出し単価や機会仕様が統一されておらず、都道府県ごとに異なるレートが適用されていたり、それにあわせて打ち止め枚数などの使用が異なっていたりした。都道府県ごとに規制が異なっていたため0号機では、同一機種でも隣の県では異なる内容となっていたこともある。

1号機

1985年、パチスロに新風営法に基づいた全国統一認定基準が定められ、1号機が登場。現在のボーナスシステムと同等のゲーム性を搭載した。

1.5号機

不正改造対策により登場。ボーナスのみでコインを増やすタイプで、純増方式で約360枚で打ち止めとなる。ボーナス終了時に打ち止めとなるのは0号機時代の名残である

2号機

1988年に登場し、ボーナスの抽選方法が完全確率方式に統一され、吸い込み方式などは全廃される。子印を50枚まで貯留できるクレジット機能が採用されて操作性が向上し、さらにはシングルボーナスや集中約など新しい遊技機能が許可されたことにより、ゲーム性が従来と比較して格段に向上した。その一方で、1ゲーム4秒の規制が加わり、スピーディなプレイが難しくなった。

3号機

1990年に登場、2号機のギャンブル性を抑えた使用であり、人気のあった周流役に対する規制が強化されてしまう。しかしゲーム性が各位置かされたことにより、結果的に基盤の交換やRAMの書き換えなどによる違法な状態での営業が蔓延してしまい、一部の機種を除いてほとんどが裏モノ化される地域もあった。対処としては大規模な基板回収や再封印が行われた結果、パチスロ人気は急落した。

4号機

1992年に登場し、前作よりもコイン持ちを良くするために、リプレイが新たに搭載されるようになった。フラグ告知機能も許可されたが、当初はあまり活用されなかった。他にも、オートリセット機能の搭載、払い出しに関係のない絵柄も後に続く機種で認められている。ビッグボーナス中に3回のJACゲームが入賞可能なAタイプ、同じくJACが2回まで入賞可能なBタイプ、ボーナスゲームを搭載していないCタイプの区分が誕生した。

4.1号機

完全確率をベースとした規制を受け登場した前作だが、拡大解釈により大幅な変貌を遂げることになる、2001年に初のストック機『ブラックジャック777』が登場。また、リール以外の手段を用いて演出を表示できる筐体が登場する。当初は簡易なドット絵やフラッシュが主体であったが、その後の4thリールや液晶搭載機の登場などで筐体そのものも大きな進化を遂げる。

その中で大量獲得機の登場やアシストタイム、通称『AT』がブームになり、1日で数万枚という、一般的には異常なまでの出玉性能を持つ機種が登場するなど、射幸心をあおる流れは一気に加速していく。世間で問題とされ始め、一部機種が公安委員会の目に留まり発売中止になる機種もあり、その中で2002年7月に日電協は規制を自主的に改定し『適度な射幸心を超える恐れがあると認められる遊技機』と判定した4.0の一部機種を4.1号機を呼称することとした。

さらに翌年には改定前の『著しく射幸心が高いと認められる遊技機』と判断された場合も、機種は検定を取り消され、撤去された。』

4.5号機

射幸心を押さえるために日電協は2002年7月から自主規制を改定、これ以降に審査を通過した機種を4.5号機を呼称することになる。

『スーパーリノ』で初搭載されたサイレンとストック形のストック機がメインになる一方、一回のビッグボーナスで700枚以上獲得できる大量獲得機の頂点を迎え、長時間では及ばないものの短時間での出玉性能は前作に巻けず劣らず機種が多かった。

4.7号機

射幸心を押さえるために導入された前作であったが、それでも十分ではないと判断され、2004年1月に規制を強化し、以降に審査を通過した機種を4.7号機と呼称することとした。

総じて前作よりも出玉性能が抑えられているが、後々誕生する好景気と比較すれば一撃の出玉は依然勝っており、撤去起源寸前まで設置され続けていたが、2007円9月末をもって検定期間満了によりホールから撤去される。ただ比、これらの4号機を始めとする『みなし機』は換金性はないものの、コインセレクターなどの若干の改造を加えられてゲームセンターなどで新たにメダルゲーム機として転用され、遊技可能となっている。

5号機

現在主流として扱われているもので、4号機以降の射幸心が高くなりすぎた機種を意図的に要件改定するため、検定基準も厳しくなり出玉性能が大幅に制限されるようになる。

短時間での出玉制限やボーナスのストック機能が禁止されるなどでだまの波が穏やかになり、4号機時代のような大量獲得も不可能になったように思えるが、2006年ごろに登場した機種や、今日稼動しているアクションリプレイタイム、通称『ART』搭載型の機種や、AT機種など、波の荒い機種が次々と開発され、4号機より獲得に時間はかかるものの、万枚、または2万枚クラスも獲得可能な機種が多く登場している。

筆者はスロットに関しては、始めてからまだ1年も経っていないので何ともいえないが、人づての話によれば、4号機の時代が一番勝つことができたという人が多く見られる。

触ったこと、見たこともないので憶測でしかないのだが、最近の5号機機種も波が荒いものが非常に多く、また中々本命のARTなどに入りにくいという壁が立ちふさがってくる。

スロットこそ、上限を守ってしっかりと計画的に遊ばなければならないのだが、スロットはパチンコと違って、止め時がかなり難しくなっているので容易に止めにくいということも問題あるのでは、と筆者は思うのだがそう感じている人は案外少ないかもしれないかもしれない。